昭和44年10月21日 朝の御理解
                            中村良一
御理解 第49節
「信心は相縁機縁。」



まさしく、信心は、相縁機縁です。ね。どうしたなら、あなたと、こうした縁が生まれようか。そのどうしたならと言うところに、どうにも出来ない、人間の力ではどうにも出来ない、不思議な不思議な働きがあっておる事を感じます。その、不思議なまでの働きをです。有難いものに、有難い事に、生かしていくというところに、信心があります。例えば、こうして、皆さんが、合楽、合楽と言うて、合楽に、いわば、ご神縁を頂かれてお参りになられる。福岡辺りから、お参りをしてこられる方達は、もうそれこそ、何十の教会を、近くの教会を通り越えて合楽に見えております。ね。しかも、途中には、いわば、立派な教会も沢山あります。なのに合楽でなからなければならん様にして、合楽にお引き寄せ頂いておられる訳です。ね。大山さんなんかは、それこそ、宮崎の山の中から、やっぱり、合楽と、合楽、合楽と言うて、合楽に参って見える。ほんなら、福岡の皆さん、秋永先生なんかでも、本当に福岡の大橋におられますから、秋永先生ところの、ちょっと、何軒か先には、福岡大橋教会と言うのがあるんですよ。しかも、ほんなら、こう自動車で見える間に、教会を通り抜けて、しかもあの、雑餉あたりの様な、あぁいう、隆々とした御比礼の立つ教会もありゃ、それこそ、当時、日本一と言われるほどしの、甘木の教会の前を通って見えるんです。不思議なことですよね。ですから、その、私共は、その不思議な事と言うか、その不思議な働きをですね。やはり、私共が、その不思議な、言うなら、おかげの頂けれる縁にして行かなければならん。本当に、縁は異なものであり、確かに、味なものであります。ね。縁を異なものに終わらせるだけではなくて、それを一つ、味なものにしていくところに、信心があります。
障子一重が、ままならなぬ人の身とこう言う。確かに、障子一重がままならぬのが、私共の、人間の実相です。ね。本当の姿です。自分で、あれが自分の思うようになるという事は、それこそ、何一つだって、ありはしませんん。ね。障子一重が、まさしく、ままにならぬのが、私共であると、悟らせて頂いたところからです。ね。障子一重どころか、二重どころか、ね。先の先まで、いうなら、先の世までも、その縁と言うものが、有難いものになって行こうというのが信心。
昨夜、夜の御祈念を終わらせて頂きましたのが、何時もの様に、十時ですから、それから、御初穂の整理をさせて頂きます。私と、久富先生と、末永さん、久富繁雄さん、手伝ってもらって、一生懸命、整理させて頂きましたが、やっぱり、十二時半でした。分からんで、一人でするなら、もう夜が明ける。整理が終わらせて頂いて、それから、まぁ一服、お茶、それからもう、お夜食でもさせて頂いてから、休ませてもらいましたが。お夜食をさせて頂きよる時に、末永さんが、こういう事を言われるんです。今日、親先生が、御大祭のお説教の中で、朝の御祈念の後に、秋永先生が、私と、親先生との縁とでも言うか、ちょうど、親先生の信心に着かせて頂いて、丸二十年になりますと。ちょうど、立教、丸九十年の教祖大祭に、三井教会の青年会として、一緒に御本部にご神縁を頂いて、あれから、ちょうど二十年の、二十年間のことを振り返ってみて、まぁ感慨無量の思いだと、二人話し合った話を、私は昨日、お説教の中で致しました。
それを聞かせて頂いておって、私も、ちょっと、五年前に椛目の時代にご縁を頂いて、はじめて、若先生にお会いをした時にという、その時の話をするんです。訳は分からんなりにですね。胴震いがする様なものを感じたち。若先生と会った時に。これから、どういう縁が、ここから育っていくだろうかと言う訳である。勿論、末永さん自身が、教会の子弟として、おかげを頂いておる人ですし、しかも、海を隔てた、壱岐の教会の息子さんですから、親教会は、福岡の、いわば、九州きっての、大教会が親教会である。ね。当然、信心をさせて頂きたいと思うなら。当然、修行させて貰いたいと思うならば、そのような素性正しい、いわば、素晴らしい親教会を持ちながら、当時の椛目の、あの埃だらけの椛目にご縁を頂いて。信心も何にも分からない。分からないけれども、椛目にご縁を頂いて、初めて会ったのが若先生であったと。そん時に、何かは分からん、目に見えない何物かに、やはり、支配されておる自分。そん時に、何か知らんけれども、胴震いを感じるようなものを感じたと。なるほど、このような風に、縁が深うなって行かなければならんのですから、そうだろうなぁと思います。ね。それを、まぁ今のところは、大事に、その縁を育てていっておる訳です。ね。どういう事に、これが育っていくか分からない。それこそ、障子一重がままならぬ人の身ですから、分かりませんけれども。それを大事にしていくところに、私は、おかげが受けられるのが信心だと思うのでございます。本当に、縁は異なものであります。確かに、信心は、相縁機縁、信心だけのことではないですけれども、相縁機縁を感じます。そら、自分が少し、信心に打ち込んでまいりましたら、あただに、その問題が起きてまいります、いわば、合楽との縁を薄くしようとする働きが、次々起こって来たんですけれども。そこを、頑として、おかげを頂いておるというのが現状です。ね。
皆さんも、ご承知の通りに、私のほうの長女が、御本部の古川家にご縁に着くことになり、もう、その用意も、段々進められてまいりました。間近になってまいりましたから、もう、色々、寄れば、その話があるんですけれども、とにかくその、その話は、一時、待ってくれと。大祭をしまわにゃね、いかんて、大祭と、結婚式の事が、一緒に、こんがらがってから、どうにもいけんから、その事を、一時ばっかり、話すなと、と言うて参りました。まぁようやく、大祭も、あのように、まぁ盛大におかげを頂きましたんですから。もう早速、その話が、色々と、寄り寄り合っております。この、例えば、事だけでも、考えて見ますと、不思議な事だと思うんです。それは、神様のご計画と言うか、神様のおかげを下さろうとしておる事は、それはもう、前も前から、分かっておったこと。私共は、障子一重がままならんのですけれども、神様はそうじゃない。先々は、あぁして、こうして、こういうおかげも頂かせようぞと言う思いでおありになった証拠には、もう、十何年も前に、その事を、母がお知らせを頂いておりましたですね、御夢の中に。ね。それから、母だけではありません。幾人もの方が、御本部との繋がりが出来ることを頂いておりました。ね。
皆さんもご承知でしょうけれども、古川家といや、金光家でも、名門中の名門ですね。教祖様の、まぁ古川隼人と言う先生は、お孫に当たられる方であるし、しかも、そのお爺さんに当たられる。また、教祖様の奥様、ね。古川八百蔵、ご伝記に出てまいります、教祖様の奥様のお里でもある訳です、古川家は。その古川家に、教祖様の一番下の、お娘様が古川家に縁につかれたので、いよいよ、そこに、縁がこゆいものになってきた訳ですが、どんなに考えても、昨日も、親先生ご夫妻と、私と、その事を話させて頂いて。どげん考えたっちゃ、不思議なこっじゃあるのち言うことでした。何かこう、私共が、御本部に縁が出来たことが、非常に何か、あまりに、お芝居のようにあるもんですから。何か、私のほうが、運動でもして、その、まぁ、そういう縁を求めたようなあれを感じておられた模様に、今までは思うておりましたが。それが、永田先生のお世話で、こうこうだったと、永田先生を、直ぐに親先生が呼ばれてから、その、決して、演出してからのものではない。自然に、そういう風になってきたんだという事を、段々、感じられるようになられたらしいんです。今度、あちらの本局にも、親先生は、お出でられませんから、奥様がお出でられて頂くことを、昨日、お話が決まりましたんですけれど。また、その事を、大変喜んで頂いておりますし。本当に、縁とは不思議なことじゃと、ね。どうしたならば、九州の、こういう田舎の、いわゆる田園教会の、しかもまぁだ、教会になって、ようやく、二年余りの教会の娘が、ね。その、信心のない人から聞きゃ、見りゃ、何でもない事でしょうけれども、ご信心を頂いておる者がです、ね。例えば、ほんなら、教祖の神様との縁続き、しかも、血の繋がりのあるところへ、縁が出来るなんて、もう、これ以上の光栄は無いですよね、言うなれば。それこそ、夢の様な事が、ここに、実現しようとしております。
その様な事がです、確かに、相縁機縁ですけれどもです。その相縁機縁がです、ね。教祖様は、私の信心を、じっとこう、天地の親神様、教祖様はみておってくださって、先々は、こういうおかげにもなろうぞ、先々はまた、あんたの所と、親戚にもなろうぞと、ね。縁続きにもなろうぞと。そういう思いまでかけておって下さった、その縁がです。私の信心が、ちょっと、不行き届きのことになって、ぷつっと、縁が切れるという事も考えられる。ね。それが、その縁が、その様に、ずーっと、十何年前に、神様がお知らせ下さったとおりの事が、出来ようとしておる。ね。それが、ほんなら、どういうようなところから、そういう事になったかと申しますとです。ね。
最近の方は、ご承知でないでしょうけれども、椛目時代に、古賀先生と言う先生が、修行に来ておりました。東飯塚教会のお弟子さんです。ね。二年がかりで、その教職を頂くというくらいですから、頭は良いですけれども、身体が弱い。人が、一年で済むところを、二年がかりで教職を頂いたという先生です。しかも、その教職も、もう、半ばあきらめるというよりも、もう断念しておった。熊本に帰って、熊本で、もう一遍、医者にかかってというような時に、お母さんが、ここの古谷さんの、マルショウ時代の縁につながって、今時分は、福岡教会におかげを頂いておったけれども、現在は、合楽教会におかげを頂いて、もうそれこそ、一家中、もう本当に、一家心中でもしなければならんと言うごたる破目に陥った時に、椛目におかげを頂いて、そこから、おかげを受けて、現在、おかげを頂いておるという話を、たまたました。そんなら、自分も一遍、おかげを頂きたいと言うて、その、熊本におりました古賀さんの、古賀先生のお母さんが、昨日、大祭に参ってきておりましたが、その人が、お参りしてきたのが始めての縁でした。ね。こん時なんかが、古賀さんが、何時も、その時の事を、述懐して言うのに、こら、私の運命が、こら、ここから変わると思うた、合楽に縁を受けた時に。椛目に縁をいただいた時に。ね。と言うようなものをです、椛目にご縁を頂いた時に感じた。確かに変わってまいりました。こうやって、息子が、こうこうですからと言うので、もう早速、その晩、熊本のほうへ電話を架けて、その古賀先生を呼びました。会いましたところが、本当に、弱弱しい風でした。それで、まぁしばらく、修行させてくれと言うから、ほんならまぁ、修行させて頂きなさいと言うて、ちょうど、丸二年間、椛目でおかげを頂きました。
椛目に参りましてから、一週間目でした。ね。その持っておる病気が、本当にひどくなりましてね、もう本当に、もう難しかろう様になりました。善導寺の、香月さんと言うご信者さんのお医者さんに来てもらいましてね。診察だけは、受けとかにゃ行くまいち。そん時に、香月先生が、私に、どういう事を言うて行かれたかと言うと。先生、ここの教会に、ご迷惑がかかっちゃならんです。迷惑がかかっちゃならんですから、早うお帰しになったが良いですち言うて帰りました。もう、難しかて、あの病人な。ね。だから、もし、そん時に、私が、人間心でですね・はぁそうですかと言うて、まぁ都合よう言うてから、古賀先生を、ほんなら、熊本に帰しておったら、現在の縁は生まれていないです。ね。私が引き受けるのじゃない、神様が、引き受けて下さったものを、私が、人間心で、帰すなんてん、出来るもんか。まぁ、向こうから、帰るといや仕方がない。ね。私の腹が、そう決まった。それから、古賀先生の身体の上に、それこそ、不思議な働きが始まりだした。古賀先生は、そん時に、どういう事になったかと言うと、頂いておる薬、医者から、あの与えておる、その薬を、もう飲むまいと決めるような決心がついたのが、その時であった。時々、折角、椛目に縁を頂いたんじゃから、ここの教会長である、大坪先生のお取次ぎを頂いてから、もう、死ぬも生きるも、大坪先生任せという気になった。ね。それから、おかげで、あぁした御用が出来るように、段々、おかげを頂いて、二年間御用が出来て、ね。その古賀先生の縁に繋がって、古賀先生の叔母様に当たられるのが、永田先生なんです。ね。古賀ゆきじと言いますが、ゆきちゃんが、おかげ頂いておる、椛目の教会ちゃ、まぁだ、教会でもないげなけれど、大変な、まぁ御比礼げなと言う話を聞いて、椛目にご縁を頂かれて、それから、殆んど毎月、月参りをされるようになった。ね。それが、永田先生と、私の縁の始まりである。そらぁね、以前、そのもう、何年も前からですね。先生が、話しはしよりなさいましたです。そんところが、また、不思議なことです。永田先生と、その古川家と言うのは、縁が、満州時代に始まる。永田先生は、満州に布教しておられた、ご夫婦で。それから、古川先生の所の、いわゆる、娘さんご夫婦が、あちらで、ぐうをしておられたですから、満州のほうへ行っておられて、いわゆる、私の娘婿になる、また、今の五代様の奥様になっておられる、お嬢様、今の五代様の奥様が、まだ、幼少の時ですから、ね。その事が、その、色々、御本部との話し合いで、永田先生が、あちらのお子さんを、見られるような縁が生まれた、満州で。ですからもう、その、こんなお小さい時から、あちらのお子さん達を知っておられるもんですから、御本部へお参りするたんべんに、古川家に寄られてからは、その、自分が、手にかけられた子供さん達を、見に寄られておった。そして、もう成長されて、もう二十五にもなり、二十七にも、段々、なって見えられるのを見てから、どうでん、まぁ市雄さんと申しますが、市雄さん、もう、私が、どうでもこうでも、お嫁さんを探しましょうと言うた話になって、私が、今、ご縁を頂いておる、椛目に、こういうお嬢さんがあるが、いっちょ、どうですかと。椛目にいっちょ、修行に来なさらんですかち言うてから、言うたという時代があったんです。
ところが、当時は、まぁだ、椛目の、もうそれこそ、まぁ金光教、全国に、椛目の、いわゆる、悪名が名高い自分ですからね。ほらもう、とにかくもう、金光様ち、唱えよるばってんから、拝みよる神様は、どげな神様じゃ分からんといった様な、まぁ悪評の時代。私共が、御本部に参っても、はぁあれが、椛目だと言うてその、まぁいわば、袖引き、爪引きされておる時代なんです。ですから、先生が、古川家で話されても、相手が椛目じゃ、問題にならない、全然問題に、向こうもしておられなかった。ところが、段々その、椛目が、その、勢いを得てきたし、それから、教会にもなってきて、段々、話を聞けば聞くほど、その、まぁ、ほんなもんじゃろうという事になってきた訳です。ね。それから、その話が、また、持ち上がってきて、いうならば、まぁとんとん拍子に、話が進んだという事になるのです。そして、今、私が申しますように、どうしたならば、教祖の神様と、縁続きといった様な事になれるなんて、もう、ゆめゆめ、思わなかった事でしょうが。で、それが、どこから、それが始まっておるかと言うとです。ね。もし、ほんなら、古賀先生の、もうほんなら、棒にも箸にもかからんごたる病人を、椛目に連れてきたんですから、香月の、その先生が言われるように、ここに、必ず、ご迷惑がかかる様な事になるから、早う、帰しなさいという時にです、私が、人間心使うて帰しておったら、もう、この縁は、そん時に、仕舞えておった事でしょう。また、神様も、教祖の神様もです。はぁ惜しいことをしたと、まぁ仰ったのじゃなかろうかと、私は思いますですね。
ですから、なるほど、信心は相縁機縁。けれども、それをただ、機縁に終わってしもうたんじゃいかんでしょうが。本当の相縁にしていかなきゃいけん。それが、相手が、例えばです、ね。自動車と、衝突したといったような事柄の縁からでもです。ご縁が生まれてくるんですよ。袖すりあうも多少の縁と言うのですから。ね。その縁を、いよいよ、有難いものにしていく道を、教祖様は教えておって下さったんです。ね。なるほど、障子一重がままならぬのでございます私共ではありますけれどもです。一重どころか、二重どころかです、ね。神様のおかげを頂いて、その上に、有難い縁に成長していく、育っていくようなおかげを頂くために、どこを、どういう風に改め、どこをどういう風に頂いて行かなければならないかという事が分かるでしょう。ね。いわゆる、私共は、何事にも、信心になれよと仰る。何事にも、実意丁寧神信心をモットーとしての生活、生き方がです。その様な有難い縁に育ってくるという事を思うのです。
確かに、私と皆さんとが、縁が出来た時に、ね。末永さんと、若先生の間じゃないけれども。初めて、若先生に会うた時に、何か知らんけれども、胴震いがしたち、ジーンと。そしたら、このような縁に、それがちょうど、先生、五年前でございますと、夕べは、その事を話しております。ね。その様に、神様が、感動ましますような縁を、私と皆さんとの間に出来たのですから、その縁をです。いよいよ、有難いものにしていくおかげを頂くために、本気で、何事にも信心にならせて頂くおかげをいただかなければならんという風に思うのでございます。どうぞ。信心は、相縁機縁と仰せられます。どうぞ。